YouTubeから政治家が金をもらうなよ
※注意 今から書く事は僕の妄想ですので
僕自身もご多分に漏れず、日ごろからYouTubeを見て楽しんでいる人間であって、その楽しさを享受している人間です。
お気に入りは『きまぐれクック 』と言った料理ものや『2bro.』『三人称』などのゲーム配信、最近は猟犬たちが可愛い『遊ぶコツばっか』などなど楽しみまくっている身であります。
そんな僕の楽しみの一つであるYouTubeについていくつか物申す!申したいと思い申す!
【目次】
YouTubeマネー
上記の表をご覧頂きたい。与野党問わず様々な国会議員様がYouTube上でご活躍されていらっしゃります。青山・西田・足立先生と言った保守本流(でいいのか?)の方々からタマキン・石垣・原口先生など野党のスターが綺羅星の如く(笑)名を連ねていらっしゃいますね。
政治家が自らの声を幅広い有権者に伝えるという事は非常に良い事だと思う。思うんやけど今回の本題、つまり君たちはYouTubeから金を貰ってない?それって良いことなの?ということ。
YouTubeは外資である。外資から金をもらっている国会議員が果たして日本のためにどれだけ汗をかけるのであろうか、はなはだ疑問や。
注1)上記の表の方々が収益化しているか不明なのであくまでも仮定の話
怖いですねぇ、ここまで書いとかないといけん時代やで
愛国貴兄たちは日ごろから「外資(特亜)に汚染されたメディア」「外資(特亜)の操り人形である野党と元自民党幹事長」とノタモウテいらっしゃるかと存じますが、YouTubeを通して
「その特亜含めて何やらの界隈からお金が与野党問わず政治家に流れてるんじゃないの?流せるんじゃないの?」
「YouTubeってアメリケンの会社だけど、アメリケンの意向が詰まったお金が政治家に流れてこない?」
という我が一考察、陰謀論は否定できまい。言下から否定する奴は世間知らずのお子ちゃまやで。
金をもらえばそれなりに忖度するのが人である。当たり前である。聖人君子ばかりではない今日この頃、そういう色眼鏡で見ておいたほうが何かと正解でしょ?
政治家への献金は非常に厳しく監視されるべきであるというのは国民の立場から言えば当然の事である。自分たちの生活が懸かっているんだから当たり前である。
「なに外資の走狗となってんだよ!」
これ至って普通でまともな国民感情やと思う。
別にアメリカに忖度すること=悪とも言わないけど、それこそ君たちが嫌いな特亜からのマネーが与党や、愛国貴兄たちが大好きな政党に流れてないとも言い切れないでしょ?
それって良いの?
ちなみに、既に国会議員を浜田大先生に禅譲された立花先生を表に加えると
はっきり言って圧勝だ。あの安倍元総理でさえ、足元にも及ばない。
紛れもなく国会議員YouTuberでは日本のトップオブトップだっただろう。
立花先生以外の再生数を足したところで倍近く違うことが分かる。
あのよしみちゃんがゴミみたいに見えるレベルである。
だって見てくださいよ、このお金の束を!
※現在は収益は剝がされている模様
それでもほぼ毎日動画出すってのも凄いよなぁ、お金が目的じゃない証拠だね☆
無法状態スパチャ
スーパーチャット。人によっては投げ銭と呼んだりまぁ、呼び方は何でも良いんですけど、リスナー1人1人がオキニの配信者にお金を差し上げるYouTubeの機能である。
ダイレクトにそのままの金額が配信者に渡される訳ではなく、何割かYouTubeに搾取されて配信者の元に届くわけですが、さて皆さん。このリスナー1人1人の氏素性など誰が調べているんや?誰がその身元を確かに保証してくれるんや?
このスパチャの受け手が金子君だったりヒカキンだったりであれば殊更問題視はしないんやけど、コト政治家が貰うのってどうなのと思うんやわ。
例えばプロフィールがものすごーーーーく可愛いリスナーが、実は画面の先にはゴツイ反射のおっさんが座っていたりとか、それこそ企業が社員に命じてリスナーに扮装して大量に投げ銭をぶち込みまくるとか、
「おいおい、そんな訳のわからん金を政治家が受け取っていいのかよ」
と思うわけですわ。
下手すれば
「このお金あげるんで弊社に仕事回してください」
なんてド直球で陳情が来るかもしれない。
政治家とは関係ないけど、危ないお薬の代金がスパチャを通じてお支払いされてたりとかしてたらどうするんだろうか。
この辺の法整備って日本は全然されてなくない?って言うところが単純にあかんやんと最近感じる訳です。
・・・・・・・・・・
と感じてたらまさかこんな事件が!
『日本人の覚醒剤製造を警視庁初摘発 暴力団幹部とYouTuber組員ら逮捕』
https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye6003512.html
反射チェックがガバガバやないか!
ツベさんよ!
政治家先生たち、スパチャの機能は停止させられるので止めておこう。
〇〇をぶっ壊す!!
・YouTubeはどこから収入を得る?
YouTubeの広告収益は「広告主が支払う広告掲載料」から発生します。 広告主からYouTubeへ広告料が支払われ、YouTubeから動画投稿者へと支払われる仕組みです。 お金の流れとしては「広告主→YouTube→動画投稿者」となります。 お金の流れを見てわかるように、YouTube側も広告収益を受け取ります。」
テレビを見ながらYouTubeを見る人はいるだろうか?
僕が見たインパール(第一回続き)
「こりゃぁ、ダメだなぁ。」
そこから少し前の話。作戦反対派だった稲田総参謀副長が更迭され、
ビルマ方面軍より後方補給の面から再度反対意見が出るも、
「1か月で落とすのだから初めから補給は諦めて持参していけば良い」
「日本人は農耕民族で元来草食動物である。これだけ四方が草だらけであればいざという時も食うには困らない」
「地元民から牛を徴発してその牛に荷物を運ばせ、運んだ先で牛をつぶして食べればよい。名づけでジンギスカン作戦だ!」
と言い、
今岡後方参謀が「作戦がどこかで詰まり1か月以上かかる場合はどうなるか?」
と言う質問には第十五軍の作戦主任・木下参謀が
「絶対にそんな事にはなりません!」と強い口調で言い切るので、会議も『そんなものかな』と言った空気で議論が進んだ。
綾部総参謀副長は昭和19年1月4日、東京の大本営にて報告。大本営の杉山参謀総長より「寺内さんたっての希望だからやらせてあげたい」と強い反対意見もなく、すんなり認可されてしまった。
そして前段に戻る。温情に近い形で作戦実行は認めたが、作戦実行のための戦力補強はほぼ行われたなかったのだ。それが後に日本兵たちを地獄に落とすことになるのである。
僕が見たインパール
インパール作戦・序
「チンドウィン河を越えて、アラカン山脈まで進出するのはあまり にも無謀です!ましてやインド国境を越えて攻め入るなど自殺行為 です!戦線を維持するための3個師団分の補給が不可能です!」
昭和18年4月、第十五軍の指令室にて小畑参謀長の悲鳴に近い意 見が飛ぶ。四月に司令部をメイミョウヘ移動後すぐから第十五軍所 属の幕僚たちは防衛ラインの研究を始めており、チンドウィン河を 挟んだ防勢案を結論として出していた。
「消極的な考えなど聞きたくはない!今や全般戦局は行き詰まって おる!この戦局を打開できるのはビルマ方面だけである。ビルマで この戦局を打開し、前途に光明を見出す作戦は可能である。ビルマ で戦局打開の端緒を開かねばならぬ!!」(責任なき戦場インパー ルより)
(牟田口中将)
同月18日には山本五十六長官がブーゲンビル島上空にて戦死し、 ガダルカナル・ソロモン諸島でも日本軍は大敗北を喫していた頃で ある。
新たに第十五軍司令官に就任した牟田口廉也中将は生来持つ熱情に 加え、焦りと後悔(※1)に似た感情を込め訓示を述べた。
小畑参謀長以下、幕僚たちは唖然としながらその場に佇むしかなか った。
そして2ヶ月後、作戦の再考を促すため他の師団長へ説得を依頼し た小畑参謀長が解任・左遷させられ、新たに牟田口中将お気に入り の久野村桃代少将が第十五軍の参謀長となる。
新参謀長の元、作戦実行に向けた方策が立てられ昭和18年6月に 第十五軍司令官以下、全参謀・ビルマ方面軍司令官以下全参謀・南 方軍の稲田総参謀副長、そして大本営より竹田恒徳少佐(竹田恒泰 氏の祖父、以下竹田宮)・近藤参謀が参加する兵棋演習が開かれた 。同席上で牟田口司令官は何と竹田宮に対して、大本営による作戦認 可を直訴したのだった。ところが竹田宮からは「補給面を考慮する と本作戦の実行は不可能」と言われ、ビルマ方面軍参謀長・中永太 郎中将と稲田総参謀副長からも反対の意を唱えられてしまった。
また第十五軍が策定した独自の侵攻計画を直に大本営へ提出しようとした事で方面軍の片倉高級参謀が烈火のごとく怒り(もともと大反対)「牟田口の馬鹿野郎!!!」と罵り反対意見を突き付け、第十五軍から以降意見を求められようとも叱り飛ばし上申することはさせなかった。
(組織図)
十五軍隷下の師団長とも牟田口司令官は信頼関係が持てていなかった。三師団長全員が初めからインパール作戦は不可能だとして反対しており、第三十三師団長・柳田元三中将は「あんな、訳の分からん軍司令官はどうもならんな」と漏らす事があった。第三十一師団長・佐藤幸徳中将自身も気性が激しく「あんな構想でアッサム州までいけるとは狂気の沙汰」と言わしめ、元来牟田口軍司令官とは特に合わなかった。このような状況であるから、稲田参謀副長や片倉高級参謀などはインパール作戦実行を何とか押しとどめていたのだが、潮目が変わる。
他の戦線で敗北を重ね、その求心力が危ぶまれてきた東條首相は何とか挽回できるきっかけは無いかと模索していた。そんな時に牟田口司令官より作戦実行嘆願の手紙が届く。初めは反対だったインパール作戦に対して牟田口司令官があれだけ雄弁に言ってくるのだから作戦を実行させて良いのかもと徐々に気持ちが傾いていった。
昭和18年10月1日、稲田副長は第十九軍司令部付に転出させられた。作戦実行に反対するものは追い出され、寺内総軍司令官も「今すぐ実行するように」と言うようになった。昭和19年1月7日、南方軍はインパール作戦の実施を決意し、大本営に正式の意見具申書を提出した。大本営は「インパール作戦」を認可した。
(補足※1)
後に『史上最悪の作戦』と呼ばれるインパール作戦であるが、牟田 口中将が兼ねてから考えていた作戦ではない。開戦当初の昭和17 年頃から大本営より『21号作戦』という形でインド侵攻構想はあ り、第十五軍に対して準備命令が出されていたのだ。時の第十五軍 司令官・飯田中将は損害が大きく無謀な作戦だと感じ麾下師団長だ った牟田口中将に作戦への意見を求めた。当時の牟田口中将は後方 支援や地理的な問題から「実行困難」と回答した。冷静に自軍や周 辺の状況を勘案した現実的な意見ではあるが、この時牟田口中将は この作戦自体を飯田中将の私案だと思っていた様で上述した様な〝 消極的意見〃を述べたのだ。ところが後にその作戦が大本営からの 指示だと知った時には「当時私の偽らざる感想としては、其れまで上司の意向に対して消極的意見を述べたことはない、生来初めて戦闘に参加した盧溝橋事件以来、各地の戦闘乃至作戦に於いて未だ曾てないことであった。それ丈に折角の軍司令官の希望に対し、前述の意見を述べたことは衷心相済まぬとの感じに満たされたが、準備が出来ていない作戦はその成功覚束ない事を痛感した為である。その後に於いて、右作戦は南方軍の意図に基づいている事、更に又棋後に於いて大本営から発動された作戦構想であった事、中略・・・。しかしこの事あってから本作戦が何れの日か再興せられる事があるかも知れない。其の際になって、明日の余裕がないからとか、準備が不十分であるかという事は出来ない、出来る限りの準備を整えておかなければならない。」と非常に後悔していることが伺える。上から言われたことを「でき ない」と言うことは軍組織として許されないことなのである。この 事が実現不可能とまで呼ばれた作戦構想の核の部分になっていった のだろう。
この訓示からわずか2ヶ月後、再度作戦を取りやめるよう説得に動 いた小畑中将は参謀長の任を解かれ、第十五軍の中では反対意見を述べられる様な空気では無くなった。
太平洋戦争が始まった時、僕は中国にいた(第六回・南方戦線へ)
開戦から昭和十八年~十九年までの六ヶ月間の状況は日本の連戦連勝の時期で、シンガポール・フィリピン・インドネシア・ニューギニア・ソロモン群島が日本の占領する所となった。
が昭和十七年五月、連合艦隊がミッドウェー島攻略戦で大敗し、主力航空母艦の大半と優秀な航空兵の殆どを失ってしまった。
これが転機となって日本軍の敗戦が各戦線で始まった。
アッツ島の玉砕、ガダルカナル島での全滅、ニューギニア島での大敗、南洋諸島のクェゼリン・ウォッジェ島の玉砕など数を挙げるときりが無い。
またガダルカナルから北上する米軍は次々とソロモン群島の島々を取り返していった。
そんな中、更に衝撃の事件が起きる。
連合艦隊司令長官の山本五十六大将のブーゲンビル島上空で戦死、日本陸軍最強の熊本第六師団がブーゲンビル島で二昼夜の戦闘の後、ほぼ壊滅してしまった。
飛行機、軍艦の数など米軍は圧倒的な戦力を保持し、日本軍は損害が著しかった。
穴埋めも出来ず、急速に日本軍の戦力は落ちた。
英米は人間の命、人間そのものを最も大切にしていたのに、日本軍では兵器を傷つけたり失ったりした際には銃殺や軍法会議に回す等、人的資源を消耗品ぐらいにしか考えていなかった。
兵隊、いや人間は二十年親が育て、教育しないと一人前にならないと言うのに。
ちょうどアッツ島玉砕が起こった後ぐらいの昭和十八年八月、僕は転戦を命じられ小さな河船に乗せられ上海の呉淞を出港した。
船は揚子江を出、舟山列島→台湾の澎湖島へ島伝いにヨタヨタ・コソコソと航行していった。
何故なら東シナ海に米潜水艦が多数出没し、日本の汽船が数多く魚雷で沈められ続けていた状況だったからだ。
途中、澎湖島の馬公の要港に立ち寄り一路、海南島→南シナ海→ベトナム海岸を伝うように仏印サイゴンに命からがら到着した。
南方の地に上陸を果たし、サイゴン→カンボジア→プノンペン→タイ国バンコック→タイ北部のチェンマイ→人喰い一族ウァー(ラワ族?)族のいる山岳地帯タカを越えサルウィン川を渡河し、ビルマに入った。
そこからロイレン→シポウにてラジオ鉄道の貨物列車に詰め込まれ、メイミョウの駅で僕と当番兵の二名は下車し第十五軍司令部に何とか着くことができた。新たな上司となる藤原少佐指揮下の参謀部情報班としての仕事に就いた。
情報班の主な仕事は敵情報の収集・分析・報告である。
参謀・参謀長・軍司令官に対し分析した情報を報告すると同時に第一線に時を失わず通報して作戦を助ける仕事である。
今でこそ情報処理はカンピューターを駆使して行うが、当時は敵のラジオ放送や第一線師団前面の敵情報報告、ビルマ民衆の動きなどを常に頭で覚え、頭の中で解析して答を出すのである。
太平洋戦争が始まった時、僕は中国にいた(第五回・中国戦線)
南京に到着後、僕は見習士官として六十七連隊第八中隊付を命じられた。
そこから中隊は合肥市の方へ移動。
琵琶湖の一・二倍の大きさの巣湖と白湖(現在は埋め立て?)の間にある標高百メートル位の下礫山に陣地を築いた。
西方の大別山脈付近には国民党軍の百七十及び百十二師団、
東方には共産八路軍一個師団、
巣湖には海賊がいる中での戦闘となった。
一番近い友軍まで約四〇㎞離れている中であり、この第八中隊だけで近隣の戦闘を行う事となった。
中隊戦力は山砲一門、機関銃二丁、大隊砲一門、自動車輜重トラック一台と、総兵力約二百五十名でこれらの部隊と相対したのであった。
毎晩のように国民党軍は何十門もの迫撃砲射撃を僕らの陣地に加え、二千~三千程の兵力で攻撃してきた。
その都度、陣前で撃破する毎晩だったが陣地に籠って防衛している中隊には殆ど損害は無かった。
昭和十六年九月初め、約五千の敵勢力が攻撃を仕掛けて来、いつもと違い中々退却せず陣地の前で夜が明けるまで頑張ってきた。
僕達は一計を案じ、敵を陣地前面に釘づけている間に中隊の一部を密かに敵の背後に進出させた。
予想通り午前八時過ぎには攻め疲れ、集中力が切れている相手の後ろから攻撃を加えることができたのだ。
慌てた敵は右往左往し、逃げ場を失い、敗走。
同日午前十時ごろには敵の指揮官は残兵と共に投降してきた。
昭和十六年九月、この警備地と任務を恒岡部隊一千名に引継ぎ、第八中隊は蘇州北方揚子江南岸の江陰へ移動した。
連隊と共に清郷工作作戦(※1)に参加、ここでは士官学校で学んだ中国語が大いに役になった。
表向きは日本軍に対して友好的に見える集落の地元民も、実際の所は面白く無いだろうし、何より国民党軍や八路軍もこれらの集落を狙って攻撃や潜入を図っていたのだ。
地元民との交渉や潜入阻止の為にも中国語は欠かせなかったのだ。
僕が生きて帰れたのも一つはこの言葉を操れたからだと思う。
作戦途中の昭和十六年十月一日、僕達五期生は現役を満期、除隊を命じられたと同時に臨時招集を受け、陸軍少尉に任官して予備役将校となった。
昭和十六年十一月、僕を含む同期の一部は、昭和十七年一月に入隊する新しい現役初年兵の教官を命じられ、南京第十五師団司令部に集合、教官教育を受ける事となった。
※1
国民党や共産党などの中国勢力の排除のために集落単位で閉鎖的に管理する手法。表向きは汪兆銘政権(南京政府)が実行するという形でなされていた。
太平洋戦争が始まった時、僕は中国にいた(第四回・豊橋予備士官学校にて)
生徒たちは外出を一切許されず、土日も当然の様に全く休みも無く訓練を受け続けた。
ここでとある陸軍士官学校での一日の様子を載せておく。
5:30 起床
日朝点呼 体操 乾布摩擦
洗面 掃除 宮城・故郷遥拝 勅諭奉読 雄健神社参拝
6:30 朝食 (冬は7:00)
自習時間
8:15 校庭に集合 服装検査
学科 4時限
数学・英語・ロシア語・ドイツ語・中国語・フランス語・
国語・漢文・倫理・心理・歴史・化学・物理・数学・地学
12:00-13:00 昼食
実科 2時限(~16:00)
教練・射撃・剣術・体操・柔道・馬術・陣中勤務
16:10-17:00 随意運動
17:00-18:00 随意時間 兵器の手入れ・洗濯・入浴・散髪等は、すべてこの時間に行う
18:00 夕食
夕食後-19:00 号令調整・軍歌演習
軍歌演習の後、酒保(売店)にてうどん・しるこ・あんぱん
菓子を腹一杯食べる 1日の最大の楽しい時間
19:00-21:00 自習時間 (1日の自習時間は、朝と夜合わせて3時間)
自習時間終了後、故郷の便りを読む
21:00 日夕点呼
21:30 消灯
これを毎日行うのだ。
特に語学、とりわけ中国語・英語に関してはかなり念入りに勉強した。
ぼくの勉強法は辞書の丸暗記。例文を含めてとにかく全て頭に叩き込んだ。
おかげで後の中国での生活や、南方戦線でのイギリス軍の情報解析にも役に立った。
また僕ら五期生だけ、他の幹部候補生の世代と違ったことは小隊長、中隊長の訓練だけではなく大隊長としての訓練を受けたことだ。
通常の幹部候補生は小隊長、中隊長の六か月間の教育で卒業となっていたが、僕たち五期生は二か月多い八ヶ月間教育を受け、大隊長の指揮能力まで教授された。
大隊長とは兵力約千五百人の部下を持つ者である。
この為、五期生では少尉でも大隊の指揮を執った者もいた。
のちに知った事だが東京の参謀本部、陸軍省、教育総監部では、昭和十六年の初め頃から対米英開戦の準備に入っていて、大隊長クラスの損害をある程度多くなると予測し、大隊長の育成が必須だと考え、急いで五期生にだけ大隊長教育を施した様だ。
昭和十六年七月二十五日、予備士官学校を卒業すると同時に、陸軍見習士官を拝命、将校の列に加えられた。
僕は中支南京の十五師団に配属され、直ちに原隊に復帰した。
太平洋戦争が始まった時、僕は中国にいた(第三回・徴兵検査)
昭和14年、関西の私立大学を卒業した僕は徴兵検査を受けることとなった。
前日は緊張して中々眠れなかったが、朝起きて4月の少し肌寒い空気に身が引き締まった。
検査場は広い講堂みたいなところで、そこで服を脱がさせられフンドシ一丁になったのだ。
初めは寒かったが裸の男達全員から発せられる熱気みたいなもので部屋の中が段々と暑くなっていった。
そんな時に受付の人から冷たい墨汁で胸のあたりに番号を書かれてヒヤッとしたのだ。
セリ前の豚か牛などの家畜に準備をしているかのように。
検査内容は身長、体重、胸囲、握力などの身体測定が主だった。
その検査の後に性病検査が行われたのだが、そこではフンドシまで外し、衛生兵の腕章を付けた人に「四つん這いになるよう」に指示をされ、彼にキャン玉をギュッと掴まれあれこれ検査されたのだ。
検査自体はそれで終わりであったが中々の痛さであった。
結果は甲種合格となり現役兵として奈良・三十八連隊に入隊を命じられた。
20日間奈良に滞在したのちに中支派遣が決定し、南京駐屯の第十五師団に所属する事となった。
初年兵教育は赴いた南京軍官学校の連隊に於いて受ける事となった。
ところが教育期間中とはいえ、いきなり討伐作戦に参加させられまさに実戦で鍛えられていった。
戦闘行為を毎日繰り返し、特に敵団の下をくぐる教育(浸透戦術のことだろうか?)を続けさせられた。
この期間3ヶ月の教育が終了し、と同時に第一期検閲を受けた。
更に幹部候補生の採用試験を受験、約700人の中で100人が合格し、僕も幹部候補生教育隊に入隊した。
その後6ヵ月間、更に討伐作戦に絶えず参加させられ、実戦教育を受けた。
次に甲乙二分科試験の結果、僕を含む40名が甲種となり、愛知県・豊橋の予備士官学校に入校する為、帰国した。