太平洋戦争が始まった時、僕は中国にいた(第六回・南方戦線へ)
開戦から昭和十八年~十九年までの六ヶ月間の状況は日本の連戦連勝の時期で、シンガポール・フィリピン・インドネシア・ニューギニア・ソロモン群島が日本の占領する所となった。
が昭和十七年五月、連合艦隊がミッドウェー島攻略戦で大敗し、主力航空母艦の大半と優秀な航空兵の殆どを失ってしまった。
これが転機となって日本軍の敗戦が各戦線で始まった。
アッツ島の玉砕、ガダルカナル島での全滅、ニューギニア島での大敗、南洋諸島のクェゼリン・ウォッジェ島の玉砕など数を挙げるときりが無い。
またガダルカナルから北上する米軍は次々とソロモン群島の島々を取り返していった。
そんな中、更に衝撃の事件が起きる。
連合艦隊司令長官の山本五十六大将のブーゲンビル島上空で戦死、日本陸軍最強の熊本第六師団がブーゲンビル島で二昼夜の戦闘の後、ほぼ壊滅してしまった。
飛行機、軍艦の数など米軍は圧倒的な戦力を保持し、日本軍は損害が著しかった。
穴埋めも出来ず、急速に日本軍の戦力は落ちた。
英米は人間の命、人間そのものを最も大切にしていたのに、日本軍では兵器を傷つけたり失ったりした際には銃殺や軍法会議に回す等、人的資源を消耗品ぐらいにしか考えていなかった。
兵隊、いや人間は二十年親が育て、教育しないと一人前にならないと言うのに。
ちょうどアッツ島玉砕が起こった後ぐらいの昭和十八年八月、僕は転戦を命じられ小さな河船に乗せられ上海の呉淞を出港した。
船は揚子江を出、舟山列島→台湾の澎湖島へ島伝いにヨタヨタ・コソコソと航行していった。
何故なら東シナ海に米潜水艦が多数出没し、日本の汽船が数多く魚雷で沈められ続けていた状況だったからだ。
途中、澎湖島の馬公の要港に立ち寄り一路、海南島→南シナ海→ベトナム海岸を伝うように仏印サイゴンに命からがら到着した。
南方の地に上陸を果たし、サイゴン→カンボジア→プノンペン→タイ国バンコック→タイ北部のチェンマイ→人喰い一族ウァー(ラワ族?)族のいる山岳地帯タカを越えサルウィン川を渡河し、ビルマに入った。
そこからロイレン→シポウにてラジオ鉄道の貨物列車に詰め込まれ、メイミョウの駅で僕と当番兵の二名は下車し第十五軍司令部に何とか着くことができた。新たな上司となる藤原少佐指揮下の参謀部情報班としての仕事に就いた。
情報班の主な仕事は敵情報の収集・分析・報告である。
参謀・参謀長・軍司令官に対し分析した情報を報告すると同時に第一線に時を失わず通報して作戦を助ける仕事である。
今でこそ情報処理はカンピューターを駆使して行うが、当時は敵のラジオ放送や第一線師団前面の敵情報報告、ビルマ民衆の動きなどを常に頭で覚え、頭の中で解析して答を出すのである。