ごんちゃん日記

『太平洋戦争が始まった時、僕は中国にいた』祖父ちゃんの戦中日記。入隊から中国・インパール作戦・イラワジ会戦・メイクテーラ攻防戦、そして終戦までを描きます。

太平洋戦争が始まった時、僕は中国にいた(第五回・中国戦線)

南京に到着後、僕は見習士官として六十七連隊第八中隊付を命じられた。

そこから中隊は合肥市の方へ移動。

琵琶湖の一・二倍の大きさの巣湖と白湖(現在は埋め立て?)の間にある標高百メートル位の下礫山に陣地を築いた。

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西方の大別山脈付近には国民党軍の百七十及び百十二師団、

東方には共産八路軍一個師団、

巣湖には海賊がいる中での戦闘となった。

 

一番近い友軍まで約四〇㎞離れている中であり、この第八中隊だけで近隣の戦闘を行う事となった。

中隊戦力は山砲一門、機関銃二丁、大隊砲一門、自動車輜重トラック一台と、総兵力約二百五十名でこれらの部隊と相対したのであった。

毎晩のように国民党軍は何十門もの迫撃砲射撃を僕らの陣地に加え、二千~三千程の兵力で攻撃してきた。

その都度、陣前で撃破する毎晩だったが陣地に籠って防衛している中隊には殆ど損害は無かった。

昭和十六年九月初め、約五千の敵勢力が攻撃を仕掛けて来、いつもと違い中々退却せず陣地の前で夜が明けるまで頑張ってきた。

僕達は一計を案じ、敵を陣地前面に釘づけている間に中隊の一部を密かに敵の背後に進出させた。

予想通り午前八時過ぎには攻め疲れ、集中力が切れている相手の後ろから攻撃を加えることができたのだ。

慌てた敵は右往左往し、逃げ場を失い、敗走。

同日午前十時ごろには敵の指揮官は残兵と共に投降してきた。

 

 

昭和十六年九月、この警備地と任務を恒岡部隊一千名に引継ぎ、第八中隊は蘇州北方揚子江南岸の江陰へ移動した。

連隊と共に清郷工作作戦(※1)に参加、ここでは士官学校で学んだ中国語が大いに役になった。

表向きは日本軍に対して友好的に見える集落の地元民も、実際の所は面白く無いだろうし、何より国民党軍や八路軍もこれらの集落を狙って攻撃や潜入を図っていたのだ。

地元民との交渉や潜入阻止の為にも中国語は欠かせなかったのだ。

僕が生きて帰れたのも一つはこの言葉を操れたからだと思う。

 

作戦途中の昭和十六年十月一日、僕達五期生は現役を満期、除隊を命じられたと同時に臨時招集を受け、陸軍少尉に任官して予備役将校となった。

昭和十六年十一月、僕を含む同期の一部は、昭和十七年一月に入隊する新しい現役初年兵の教官を命じられ、南京第十五師団司令部に集合、教官教育を受ける事となった。

 

※1

国民党や共産党などの中国勢力の排除のために集落単位で閉鎖的に管理する手法。表向きは汪兆銘政権(南京政府)が実行するという形でなされていた。