太平洋戦争が始まった時、僕は中国にいた(第二回)
太平洋戦争が起こるまでの経緯・遠因
戦中について、祖父にインタビューをした際に冒頭に述べたのが、
日本が大戦に入るまでの流れでした。
残念ながら何故祖父がこれらの事件を挙げたのか、
その重要性や理由を見出していたのか聞きそびれておりました。
※今回は祖父の回想記ではありません。
のち昭和10年頃まで日本では不景気が続く事となる。
更に東北では冷害が起こり、作物が出来ず生活の為に親は娘を人身売買するなど
貧困の度合いが色濃く出ていた社会的背景があった。
Ⓑこの社会不安が大きい情勢に乗じて、陸大・陸軍士官学校出身の職業軍人が
軍備拡張を計画した。
満州馬賊(※①)の頭目である張作霖の乗った列車を関東軍(大日本帝国陸軍)の
謀略のもと爆破、暗殺を実行した。
これが原因となり、『満州事変』、ついで『上海事変』が起こる。
日本軍と連携して攪乱・スパイ活動なども行った。
Ⓓ関東軍は清国最後の皇帝、宣統帝を擁立し満州国を建国させた。
この為、中華民国の蒋介石総統を中心に排日運動(※①)及び日貨排斥運動(※②)が
起こった。
※①日本の侵略的行動に対する対抗措置
※②日本商品のボイコット
Ⓔ昭和7年5月15日、海軍将校、士官候補生等によって『五・一五事件』が発生。
昭和11年2月26日、麻布三連隊、歩兵第一連隊、近衛歩兵第三連隊の一部部隊による
『二・二六事件』が発生。
昭和維新革命を目的とした軍事行動を起こした。
Ⓕ昭和10年6月10日、梅津中将、中華民国の何応欽大将との間で
『梅津・何応欽協定』(※①)を締結。
※①中国軍の華北地域から撤退、すべての抗日運動を禁止した協定。
華北分離工作の一つ。協定の経緯などはかなり複雑なので割愛。
私自身初めて聞く事柄でしたが、かなり重要な事件だったようです。
Ⓖ昭和12年7月7日、北支駐屯軍の牟田口大佐の連隊が北京の南郊外で夜間演習中、
宋哲元率いる中華民国二十九軍の部隊より射撃、攻撃を受け、軍事衝突が勃発。
これを『盧溝橋事件』と言う。停戦合意交渉後も関係悪化の一途を辿る。
Ⓗ中国軍と日本軍の停戦ラインの中間地に夜間、共産八路軍が潜入し
日支両軍に向かって発砲。この為、日支両軍の協定が破れ
『日中戦争』についての経過
Ⓐ戦線は北支軍が京漢線(北京―漢口間の鉄道)、津浦線(特に天津―南京間)に
沿って中国軍を攻撃。南に向かって進撃を続けた。
Ⓑ上海の呉淞(ウスン、ウースン)に敵前上陸して上海に攻撃を開始。
軍部は中支派遣軍を新たに編成するも、中国軍の大部隊が頑強に抵抗して
日本軍の進撃は遅々として進まず。日本軍にも多数の犠牲が出る。
Ⓒこの戦況を打開するため日本軍は、杭州湾に柳川兵団(※①)4万人を上陸させ
西北に向かい進撃、蘇州を攻略した。
後方を突かれた中国軍は南京に向かって退却していった。
これを追いつつ中支軍は中華民国の首都、南京を陥落させた。
※①第10軍の通称。大日本帝国陸軍の軍の一つ。
Ⓓ徐州に陣地を構える中国軍の大部隊を攻撃するために南下してくる北支軍、
南京から北上する中支軍の挟撃によって徐州を攻略。
Ⓔ続いて漢口・武昌・漢陽攻略のため、揚子江の北岸地区・大別山脈を西進する部隊と
揚子江南岸を西進する部隊及び海軍の軍艦が揚子江を遡上、併進する。
Ⓕこの頃、ドイツの駐華大使トラウトマン(※①)が日華の間に立って
和平交渉に乗り出した。日本軍は蒋介石の全面降伏を要求した為、
和平交渉は失敗した。この時、日本政府は近衛声明を通じて
「今後、蒋介石政権を相手とせず」と発した為、
以後中国と日本の和平交渉の道が閉ざされ日支事変は長期化することとなった。
※①当時、ドイツでは既にナチス政権が樹立していたが中国・国民党政府に対し
軍事顧問団を送るなど軍事的にも経済的にも協力関係があった。
ドイツが日本を、イギリスやアメリカとの戦争に巻き込む為に動いていたとの見方も。
ドイツも単独でこの2か国を相手するのは難しかったのだ。
Ⓖ英米仏などの国は蒋介石政権を援助するため、兵器・弾薬・石油その他の
軍需物資を送り続けた。これを阻止するために、日本は南支に戦線を拡大し、
広東省・広西省(現在の広西チワン族自治区)に軍を進め、それらを攻略した。
張鼓峰事件とノモンハン事件
Ⓐ昭和13年、ソビエトは朝鮮・満州・ソビエト沿海州の国境三角地帯に越境侵略、
日本軍に対し飛行機・戦車によって攻撃してきた。
対する日本軍は戦車に対する防禦戦闘として火炎瓶を投げつけた所、
ソビエトの戦車は簡単に火を発して燃えてしまった。
それもあって侵略の目的を果たせず、ソビエト側から事件の解決を
日本政府に申し込んできて事件は解決した。この一連の流れを『張鼓峰事件』と言う。
Ⓑ昭和14年、満蒙国境のハルハ川を越えて飛行機と戦車多数で日本軍を攻撃してきた。
この時も日本軍は『張鼓峰事件』と同じ戦法で火炎瓶を投げつけたが、
戦車は燃えることなくドンドン攻撃をしてき、日本の守備隊は壊滅した。
『張鼓峰事件』の際の戦車はガソリンエンジンだったが、
ノモンハンに投入された戦車はヂーゼルエンジンで火炎瓶攻撃では
燃えなかったようだ。
蒙古方面から多くの飛行機・大砲・戦車を増強し満州に侵略を続け、
対する日本軍は小松原兵団を派遣。こちらも戦車・飛行機・大砲を以って
防禦に努めたが、性能がソビエトのそれと比べて低かったので簡単に撃破され、
全滅に近い被害を被った。
日本軍はハルハ川の国境付近でソビエトに事件解決の申し入れをし、
一応事件は収まった。
その頃の世界情勢
Ⓐ昭和15年度、イタリア・ムッソリーニを首魁としたファシズム、
ドイツ・ヒットラーを首魁としたナチズム、そして日本の陸軍とが三国同盟を締結。
太平洋戦争が始まった時、僕は中国にいた
昭和十六年十二月八日、日本海軍はハワイ真珠湾を奇襲攻撃、日米開戦。
タイ・マレー国境を日本軍が越えて、英軍に攻撃。
台湾から発進した戦闘機によりフィリピンを空襲、
フィリンピンのリンガエン湾より上陸する為の準備攻撃を続けた。
これにより、米英支蘭四国に対し、宣戦を布告し大戦に入った。
同日、中国戦線第十五師団司令部において教官教育を受けていた僕を含め、
師団の教官全員を赤鹿歩兵師団長(当時少将)が講堂に集め、開戦を知らせられた。
夜半、一通りの説明を聞き教官である将校達も気持ちが高揚したり動揺したりする中、
おもむろに師団長より半紙を切ったものを全員に配られた。
「この戦争は勝つか負けるか、〇×で答えよ。〇は勝利、×は敗北。
無記名で提出しなさい。」
僕は迷うことなく×を付けた。他の皆も印をつけ、
半紙を綺麗に畳んで師団長に提出していた。
師団長が一つ一つ丁寧に開け、「○」「×」と告げ黒板に数を記していく。
結果×は八割、〇は二割だった。
なんと、ほとんどの将校達は勝てるはずがない、と判断していたのだ。
ここでの教官の構成では予備役(元々は一般人)が八割、職業軍人が二割だった。
偶然にもその数は一致したのである。
赤鹿少将は
「資源、工業力、経済力及び彼らの持つ合理的思考は十二分に知っている。
長く戦闘をする利は無い。早く講和を結ぶ方向でやらないと日本は必ず負ける。
×組は敵の資源、産業力を知っていて×を付けたのであれば懸命だ。」
と結論付けられた。
赤鹿少将は長年、駐米大使館付武官を務めていた人で米国の状況に詳しかったのだ。
〇組は「日本人には資源や経済力は劣るが大和魂で以って臨めば負ける事はない。」
と意見する者もいたが、
「日本人に大和魂があるなら、アメリカ人にはヤンキー魂がある。」と
×組から反論もあった事を記憶している。
後事、少将の言った通りになって、日本敗戦の日を迎える事となるのだ。