僕が見たインパール
インパール作戦・序
「チンドウィン河を越えて、アラカン山脈まで進出するのはあまり にも無謀です!ましてやインド国境を越えて攻め入るなど自殺行為 です!戦線を維持するための3個師団分の補給が不可能です!」
昭和18年4月、第十五軍の指令室にて小畑参謀長の悲鳴に近い意 見が飛ぶ。四月に司令部をメイミョウヘ移動後すぐから第十五軍所 属の幕僚たちは防衛ラインの研究を始めており、チンドウィン河を 挟んだ防勢案を結論として出していた。
「消極的な考えなど聞きたくはない!今や全般戦局は行き詰まって おる!この戦局を打開できるのはビルマ方面だけである。ビルマで この戦局を打開し、前途に光明を見出す作戦は可能である。ビルマ で戦局打開の端緒を開かねばならぬ!!」(責任なき戦場インパー ルより)
(牟田口中将)
同月18日には山本五十六長官がブーゲンビル島上空にて戦死し、 ガダルカナル・ソロモン諸島でも日本軍は大敗北を喫していた頃で ある。
新たに第十五軍司令官に就任した牟田口廉也中将は生来持つ熱情に 加え、焦りと後悔(※1)に似た感情を込め訓示を述べた。
小畑参謀長以下、幕僚たちは唖然としながらその場に佇むしかなか った。
そして2ヶ月後、作戦の再考を促すため他の師団長へ説得を依頼し た小畑参謀長が解任・左遷させられ、新たに牟田口中将お気に入り の久野村桃代少将が第十五軍の参謀長となる。
新参謀長の元、作戦実行に向けた方策が立てられ昭和18年6月に 第十五軍司令官以下、全参謀・ビルマ方面軍司令官以下全参謀・南 方軍の稲田総参謀副長、そして大本営より竹田恒徳少佐(竹田恒泰 氏の祖父、以下竹田宮)・近藤参謀が参加する兵棋演習が開かれた 。同席上で牟田口司令官は何と竹田宮に対して、大本営による作戦認 可を直訴したのだった。ところが竹田宮からは「補給面を考慮する と本作戦の実行は不可能」と言われ、ビルマ方面軍参謀長・中永太 郎中将と稲田総参謀副長からも反対の意を唱えられてしまった。
また第十五軍が策定した独自の侵攻計画を直に大本営へ提出しようとした事で方面軍の片倉高級参謀が烈火のごとく怒り(もともと大反対)「牟田口の馬鹿野郎!!!」と罵り反対意見を突き付け、第十五軍から以降意見を求められようとも叱り飛ばし上申することはさせなかった。
(組織図)
十五軍隷下の師団長とも牟田口司令官は信頼関係が持てていなかった。三師団長全員が初めからインパール作戦は不可能だとして反対しており、第三十三師団長・柳田元三中将は「あんな、訳の分からん軍司令官はどうもならんな」と漏らす事があった。第三十一師団長・佐藤幸徳中将自身も気性が激しく「あんな構想でアッサム州までいけるとは狂気の沙汰」と言わしめ、元来牟田口軍司令官とは特に合わなかった。このような状況であるから、稲田参謀副長や片倉高級参謀などはインパール作戦実行を何とか押しとどめていたのだが、潮目が変わる。
他の戦線で敗北を重ね、その求心力が危ぶまれてきた東條首相は何とか挽回できるきっかけは無いかと模索していた。そんな時に牟田口司令官より作戦実行嘆願の手紙が届く。初めは反対だったインパール作戦に対して牟田口司令官があれだけ雄弁に言ってくるのだから作戦を実行させて良いのかもと徐々に気持ちが傾いていった。
昭和18年10月1日、稲田副長は第十九軍司令部付に転出させられた。作戦実行に反対するものは追い出され、寺内総軍司令官も「今すぐ実行するように」と言うようになった。昭和19年1月7日、南方軍はインパール作戦の実施を決意し、大本営に正式の意見具申書を提出した。大本営は「インパール作戦」を認可した。